水野洋司
週末は決まって友達とお酒を飲んで遊んでいました。その頃、職場にクリスチャンの人がいて言われました。「キリストを信じて神さまの愛が分かったら幸せになりますよ」。
私はその人に言いました。「私は幸せですよ、それに神さまを信じなければいけないほど弱い人間ではないですから」。
けれども、私の心の奥底にある誰にも見せられない心の有り様や、多くの人に囲まれているのに孤独でたまらない、幸せである筈がないのにただ見栄を張って強がっていただけでした。
暫く時間が流れましたが、人間関係に悩んで深く心が沈んでいた時期がありました。それは友達に対する憎しみだったり、生きていく煩わしさなどで、自殺という言葉も目の前にちらついていたある日、私が初めて「お祈り」をした時のことです。
仕事が終わり更衣室を出る扉の前で立ち止まり
「神さま」と、呟いた様な祈りをしたのです。
私はその時に心の中に大きな変化があることを確認しました。
それは、「私は神さまに愛されている」そのことが心のなかに広がって、暖かく包まれている様な気持ちになったのです。その夜は親睦会の打ち合わせで車を走らせていたのですが、不思議に涙が溢れてとまりませんでした。
クリスチャンの人が「私(神さま)の目にはあなたは高価で尊い、私はあなたを愛している」。
お祈りしたら応えて下さると聞いていたからです。10月17日、その日は金曜日で次の日曜日に初めて教会に行きました。集まっていたクリスチャンの人に神さまと出会ったいきさつを伝えると、みなさん泣いて喜んで下さいました。
「これから日曜日は教会に行くから、もう飲みに行かないよ。ゴメン」。と、友達に明らかにするには結構勇気がいりました。
クリスチャンと言えば禁欲的で真面目というイメージが強かったし、神に頼ると言うクリスチャンを主体性の無い弱い人種だと軽蔑視していたからです。
教会に行き始めて、聖書のメッセージにふれる度に、私の罪の問題に解決があることを知りました。いちばんの親不孝は親の愛を疑うこと、人間にとって最大な罪は、神さまの愛を信じないこと、これが原罪であることを知りました。
私は神さまに今まで背いてきた罪を悔い改めてお祈りしました。
神さまの愛は、そのひとり子を十字架に付けてまで、命を捨ててまで、私が滅びないで天国に行くことが出来るようにと、あのクリスマスの日に救い主を贈って下さっていた。
心にある平安は、十字架に表された神さまの愛を知って、揺るがない確信に変わりました。新しく生まれ変わった様な感覚で、その時から神さまを愛することが私の喜びになりました。
けれども、キリスト信仰について疑問に思うこともありました。それは本当の神さまが、どうしてキリスト教の神さまなのかということです。
「目に見えない神の本性は、天地創造によりこの宇宙が誕生した瞬間から、それが存在しているという事実によって認められています。この世界が存在しているということは、その背後にその存在を可能にしている全てを超越した力が働いていることは明らかなことで、人間は自然を観察することによって当然のように気付いている訳であって弁解の余地が無いのです」。
「創世記」を読み始めた私は、聖書の神さまが本当の神さまであることを信じることができたのです。
そして、私の心のなかにもうひとりの新しい心が存在していること発見しました。愛すること、信じることを教えて下さるだけでなく、聖霊として私とともにいて下さる。決して消えることのない喜びがあることをが信仰を持ったいちばんの理由です。
今まで様々な問題がありました。未熟な私の言動で身近な人に傷付け失敗したこともたくさんありました。厳しい現実の中でつまずいても、転んでも情けなくて自分自身を憎むような時でさえも。
「愛しているよ、たとえあなたがどの様な人間であっても、本当は自分勝手で、見栄っ張りで、誰かを傷付けずにはいられない愚かな弱虫であっても、生きることを恐れるな、私はあなたを愛している、私があなたの神だから」。と、語って下さる。
会社の更衣室で初めてお祈りしたあの日から40年が過ぎました。私は今も神さまの愛によって支えられています。漠然とした希望でも無く、自分に必死に言い聞かせるのでも無く、何の疑いも無くそう信じれるのです。それはもっと強い、もっと確かな、私の生涯を抱きしめて離さない暖かな命の造り主だったのです。